(天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌)反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
読書の記録
去年令和五年の六月ごろは本業の収入が減少し副業として始めたバーもたいした売り上げにならず困窮まったなしのタイミングであった。
システム開発の仕事を増やそうとフリーランス用サービスに登録したものの週に一度の非常勤講師業とバーが足かせとなったかオファーはなかった。つづく七月にはパン工場などのアルバイトを何度かすることになる。そんな極限状態にもかかわらず精神的には安定しており生活に満足していた。
妻子がおらず開店半年経ったバーに訪れることのない両親や姉にも気兼ねする筋合いはない。昼はリモートと夜はバーと忙しいけども隙をみて読書や演奏ができるし万葉集もよく進む時期だった。
感想
形式
四首目にしてようやく五七五七七の書き下し。短歌形式だ。
大伴家持が編纂者だとすれば和歌といえば短歌形式に固定されていた頃だろうか。仮に一巻二巻の編者が人麻呂だとしても、人麻呂の頃もすでに短歌形式が主流となっていたともあった。
万葉集の冒頭に主流の短歌ではなくあえて長歌を続け、短歌として最初の歌は長歌への返歌である。どのような理由だろうか。
作家性
題に返歌とあり事項(参考文献の分類)には代作とある。作家性の複雑な歌だ。明治であれば西洋思想の文脈における芸術の定義から外れていると評されるだろう。
明治頃は対外姿勢として「日本には芸術が存在する」すなわち日本は文明国だと言い張りたいという事情があった(万葉集という事業も同じ目的という説をみた)。
子規の俳句の発明、すなわち江戸期の俳諧の連歌の発句だけを抜き出して個人芸術に読み替えることは日本が文明国であると主張できるからこそ知識人に評価されたのではなかろうか。
コミュニケーションアート、コミュニティアートの存在する令和の現在においてもはやことさらに「万葉集は個人の表現である」と主張する必要はないだろう。
虚子が第二芸術論に対して「第二どころか第二十一芸術まで進んでいる」と応えたとする本をみかけた。西洋の芸術の定義が21世紀にコミュニケーションアートを内包するに至ったとするならば、西洋思想が万葉集に追いついたと表現しても過言ではない。
返歌とは
返歌は「贈られた歌に返答する歌と定義されている」(後ほど引用元を追記する)。長歌と返歌のセットをどう鑑賞・理解すればいいのだろうか。
一首目は女性に名を名乗り「問いかける」歌。
二首目は前の歌にあった大和を「誉める」歌。
三首目と四首目は贈答の関係。
一首目と二首目も意味の上では対といえる。ここまで万葉集の冒頭は全てダイアログといっていい。
枕詞
見返すとここまでの四首全てが枕詞を持つ。枕詞とはなにか。
枕詞 – Weblioによれば「多くは実質的な意味を持たない形式的な修飾語」とある。 枕詞 – Wikipediaを確認しても説ばかりでうまく消化できない。「実質的な意味を持たない」という説明がどうも腑に落ちないので子どもの頃から記憶しづらいし和歌へのとっつきにくさの原因となっていた。
時代による変遷や拡大解釈のある言葉はどれもわかりづらい。私が子どもの頃に好んだ「ロック」という言葉も100年と待たずに定義が膨張してゆく。「芸術」もそういう言葉だろうし「枕詞」も本来枕詞と認められるべきでないものまで枕詞として増殖しつづけ本来の力を失い無意味なものとなってしまったのだろう。いずれ季の詞もそうなるのだろうか。言葉の定義が膨張しないようにするのが後世への思いやりなのではなかろうか。
もとい枕詞は場所などを褒めたたえる序詞(枕詞と異なり二句ないし四句から成る)であったものが省略されたのではないかという。その説は「実質的な意味を持たない」よりわかりやすかった。人麻呂の時代既に伝統化し省略された言葉だったすると非常に興味深い。文字になる前の歴史が長いということか。
これは『万葉集』に書かれた歌を多く残している人麻呂によって新作・改訂された枕詞がきわめて多い[10]ということによっても、裏付けられることであろう。
枕詞 – Wikipedia
枕詞が新作されたとどのように判別したのだろう。新作したとして何が目的か。大陸に修辞の言葉を水増しして見せたかったか。結果的にその人麻呂の新作・改訂が枕詞無効化の原因だとしたら面白い。しかし仮に中央集権的整理や対外の虚勢が目的だとしても一概に悪とする気にはなれない。現代よりもよっぽど暴力的な時代だったはずだ。武化と文化のうち文化で中央集権や侵略を未然に防ぐことができるのなら平和的だろう。
言葉が本来の意味を失うのはさみしいが宿命といえる。形式的に冠する習慣さえ残ればいつか本来の力を取り戻すのかもしれない。
一首目「そらみつ(虚見津)→大和」空見つとする説など。虚の字をふったのはなぜか。
二首目「とりよろふ(取與呂布)→香久山」とり(神的なもの)が寄る説など。
三首目「やすみしし(八隅知之)→大君」八方を治めるなど。漢字と意味が一致しているように感じる。
ときて四首目「たまきはる(玉尅春)→命」魂が極まるなど。次項へ。
単語・固有名詞について
たまきはる 玉尅春
[枕]「命」「世」「うち(現)」「わ」などにかかる。語義・かかり方未詳。
「—命惜しけどせむすべもなし」〈万・八〇四〉
「—宇智(うち)の大野に」〈万・四〉
[補説] 語義は「魂きはまる」で生まれてから死ぬまでの意とするが、諸説がある。
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%82%8F%E3%82%8B
「たま」とは何か。同語を用いる歌を並べて鑑賞する予定。
※追記予定
『たまきはる』は藤原定家の同母姉健御前『建春門院中納言日記』の仮題でもある。健御前は建春門院の死後八条院の女房として仕えた。八条領は全国各地にありいま私が住む上総にも強い影響を与えたらしい。健御前、八条院に興味があるため記録しておく。
※追記予定
宇智の大野
現奈良県五條市とする解説があった。五條市説があるということは「宇智」とは具体的な地名という解釈が一般的のようだ。
「うち」とは何か。枕詞たまきはるで呼び出された言葉。上の定義に従えば「うち(現)」ということか。沖縄のウチナーとか身内の意味を連想した。「領土の大野」とするほうがこれまでの歌との繋がり具合がいい気がする。アカデミックな読み方ではなくただの連想として。
地名と解釈した方が実景に結びつけやすい。芸術としての価値を高めるなら実景を結びつけやすい解釈とするべきか。
※追記予定
踏む
踏む、というと神楽や舞踊の反閇(へんばい)を思い起こす。
舞踊に詳しい方が「皆が反閇に興味を持ちすぎて耳タコです」というようなことを仰っていた。反閇が重要であることは間違いないが深読みをしすぎないようにしたい。そもそもここでは馬が踏み均すのだから反閇とは無関係である。
無関係であることを前提に反閇からの連想など。沖縄の東の御嶽というところに観光した際、祭りのあとだったのか森の中の土が踏み均され集会場のようになっていた。人が踊らなければ草木が生え伸びて人の入れないところになるだろう。集会場や道を保つためには生命を踏み均しつづけなければならない。
地面を踏み均すことと国家を平定し平和を保つこととがもどき、ジェスチャーとして一致するのではないかという予感がある。深読みだろうか。
草深野
※のちに追記予定
※ 情報はウィキソースから引用 万葉集/第一巻 – Wikisource
題詞
(天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌)反歌
原文
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
仮名
たまきはる うちのおほのに うまなめて あさふますらむ そのくさふかの
翻訳
大君は、この朝に宇智の広い野で馬たちを堂々と連ねて、その草深い野を踏んでおられることでしょう
たのしい万葉集
霊魂のきわまる命(うち)――宇智の大野に馬をつらねて、朝、踏んでおられるでしょう。その草深き野よ。
万葉百科
(魂の極まる命)宇智の広々とした野に馬を連ねて朝に踏んでおられるでしょう、その草深い野を
万葉集入門
解釈
なし
高岡市万葉歴史館
論文等
発見次第記録したい。追加すべきものがあればご紹介いただきたい。
コメントを残す